マダム・イン・ニューヨーク
言葉がなくても、心は伝わる。でも、言葉があれば、もっと伝わるかもしれない。
マダム・イン・ニューヨークを鑑賞。
インドに住む主婦シャシが、アメリカに住む姪の結婚式のため、単身アメリカへ行くことに。だが問題が一つ、彼女は英語が話せなかった。そのことで家族からもバカにされ、コーヒーショップで注文すらできず、号泣。意を決して四週間で英語を習い始める、というストーリー。
言葉の壁って、外国に行ったことがある人なら、誰しも一度は感じたことがあると思う。大衆が共感できるテーマが、映画に用いられていることが、この映画が好まれる理由の一つだと思う。
シャシがアメリカのコーヒーショップで満足に注文が出来ず、店員にバカにされ店から出て号泣してしまう場面があった。自国からでたことがない人はわからないかもしれないが、海外で人の発している言葉が理解できない、意思疎通ができないと、とてつもない孤独と絶望が襲ってくる。大の大人でも泣いてしまうくらい、不安でどうしようもなくなる。私にも経験があるからこそ、この場面のシャシには大いに共感してしまった。私のような人は、きっと多いはず。
シャシはインドで暮らし、ヒンドゥー語を話す。しかし、同じヒンドゥー語を話すはずの家族とは心が通わず、英語が話せないことをバカにされてしまう。シャシは家庭にいても孤独で、誰も認めてくれない。一方、英会話クラスで出会うメンバーたちとは言葉少ないながらも、お互い本音で話し合い心を通わせる。シャシの料理の腕を純粋に認め、仲間と呼べる存在になる。
この対比が面白いと思った。言葉が通じるはずなのに、心が通わない家族。言葉は通じないけど、心を通わせる仲間たち。大切なのは分かろうとする心。相手と対話し、向き合うことなのだろう。
だがしかし、その上でもやはり、言葉が分かった方がより世界は広がるし、相手との関係も深められると、この映画は伝えていると思う。シャシがスピーチの後、合格証をもらった描写からもそれは明らかだ。もし心が大事と結果付けたいのならば、シャシが家族と和解するシーンさえあればよかったのだから。
英語、話せるようになりたーい。
あかり