ダークナイト

役作りとは、精神を構造する作業だと言えるかもしれない。

 

ダークナイト鑑賞

 

ダークナイト (字幕版)

ダークナイト (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

クリストファー・ノーラン監督による、バットマン三部作の二作目。

バットマンゴッサムにて、毎夜悪人退治を行うが、悪は根絶するどころか蔓延るばかり。そんなゴッサムに、ジョーカーという悪人が現れる。ジョーカーは手段を問わず、悪行そのものを快楽とする極悪人だった。

 

ダークナイトというタイトルなだけあって、とてもダークな内容だった。一番正義に近いところにいた検事ハービーが、憎しみのあまり悪に堕ちていく姿。人の命を玩具のように弄ぶ極悪人。そして、まさかのヒロインの死・・・・・・。

観ている側としては、ズーンと重さを感じる映画だった。

 

だからこそ、先の展開が読めず、映画としてとても面白かった。152分の長丁場だったけど、飽きることなく観れた。

 

このダークナイトより、2019年に公開されたJOKERを先に観ていた。あのアーサーが、映画ラストで悪に身を投じてから、こんなところまで堕ちきってしまったのかと思うと、やりきれない思いを感じた(JOKERのジョーカーが、ダークナイトのジョーカーと同一人物だとは公式に言われていない。だけど私は、同じ人物として観た方が、よりこの映画たちを楽しめると思っている)。

 

ジョーカー(字幕版)

ジョーカー(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: Prime Video
 

 

 

演技に関して、特筆すべきはやはり、ジョーカーを演じるヒース・レジャーだろう。ジョーカーとしての振る舞い、言動に違和感がなかったし、ジョーカーそのものとして存在していたように思う。映画の画面越しでも、彼の圧倒的な存在を感じたし、ジョーカーの狂気が伝わってきた。こういう役は難しい。なんとなく演じても、観ている側に違和感を感じさせるし、役者本人の自意識や迷いが前面に出てしまう。

 

 

狂気に身を落とすのは、容易なことではない。下手をすると、二度と正気に戻ってこられない可能性だってある。戻ってこられたとしても、時間がかかるし、役者の私生活を犠牲にすることだってある。だからこそ、役者は多額のギャラがもらえるのだと思う。多額のギャラでなければ、このリスキーさとつり合いが取れないからだ。

 

演技は作りものだと思っている人がいる。例えば貴方がジョーカーを演じてみてと言われたとする。きっと多くの人は、おかしくなろう、凶行に走ろうと思って演じるだろう。なにもない状態から、感情を生み出そうと自家発電するだろう。しかし、それは違う。おかしくなろうとしているあなたがいるだけで、ジョーカーとして観れないし成立しない。

 

なぜなら、ジョーカーは自分の行動がおかしいと思ってないから。彼にとっては、あれがフラットな状態だから。彼は行動を起こすたびに、おかしくなろうとは考えないから。フラットに人を殺したり、弄んだりできるマインドでないと、ジョーカーは演じられないのだ。

 

では、どうするか。

目の前の事物にただ反応し、心で感じ、役として思考し(ときに無意識的に)、アウトプットすればいい。バットマンがいる→ワクワク→楽しそうだから殺そう→笑顔でおそいかかる、このように。役としての思考回路をどう作るか、心で感じた動きをどのように表出するかが、役者として腕が問われる部分だ。役作りとは、精神を構造する作業だと言えるかもしれない。

 

役の精神が、普段の自分や自分が生きている世界に近ければ、役作りの作業は比較的進めやすいだろう。しかし、明らかに自分と離れている場合には、時間と労力を要する。凶行が楽しいと思っている役を演じるには、自身の中の狂気と向き合ったり、凶行が楽しいと思えるまで自分を追い詰めなければならない(もちろん、理性は保ったままで)。

文字にしてしまえばそれだけのことだが、とんでもなく辛い作業だ。精神崩壊したっておかしくない。

 

だからこそ、ヒース・レジャーの演じるジョーカーは見事だったと思う。

彼の狂気に拍手を送りたい。

 

※役作りに関しては色々なやり方があり、唯一絶対の正解はありません。これは、あくまで私個人の見解です。

 

あかり